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2008年4月

2008年4月30日 (水)

記録

今日はほとんど寝てばかりいて、結局しようと思っていた仕事もまったく手つかずの鬱状態。4月に入ってから特にずっとこんな感じでとても良くない。今まで生産性のない鬱はなかったのに本当に残念でならない。

この正体が、生きているということの中心にあるもの、自分が生きている理由、その基準もろとも変えてしまわないと対応が出来ないという結論から起こっている鬱というか鬱になる手前の小康状態なのだということは解っている。今までは、自分が生きている、生きていくことの判断基準や価値基準が揺らぐことはなかった。今まで苦しかったのは、一つの目的がありそれをどうやって前に進めるのか、守るのか、でしかなかったためだ。自分が多くの人が採用している基準で自分が生きていることの価値を感じることが出来ないのは解っていたし、だからこそ自分で生きれる方法を探して見つけて死ぬ準備をしてきたが、それ自体が個体として生きていくことを揺るがす状況になってしまった。そもそも、生きること自体に意味や価値を求めること自体限界があるということは解ってはいたが、どうしてもそこから抜け出すことが出来ずに居た。何を目指しても、悔しいかな自分は限りなく意味の存在でしかないことを思い知らされるだけだ。スキームそのものの転換がなしえていない。保留し続けてきたツケだ。どうしても、意味を放棄することが出来なかった。

人間は、死後の世界が解らないということで、様々な問題を保留できている曖昧な存在だ。おそらく、自分自身もそうであると思う。なので、その後を想定せず、物事を考え生きている間の事象の枠内で問題を解決しようとする。宗教や信仰のスキームはこれとは違い死後の世界や別のナニカに担保されているため、常人からは考えられない「生き方」が可能になる。それは、自爆テロであっても、マザーテレサであっても常人ではないという点で同じだ。彼らにとっては、生きている間のことは死んだ後のことの一部だったり、ナニカの「ついで」でしかない。けれど私には信仰などないから、死ぬまでの限定的な条件下で物事を考える他ない。選択肢が少ない中で、生きている間の問題を処理しようとしてしまうために、論理の破綻が訪れるのも当然ではあるが、宗教のようなスキームは自分には採用され得ない。

「生きていること」が何かということには、「生きていないこと」が想定されて初めて明確になるのに、人間は「生きていないこと」を知り得ることができない。「生きていること」の範疇でそれを考えること自体が論理の破綻であり、「人の命は地球より重い」とかいうアホなワードと同レベルであるということも解る。同じレベルで破綻している。けれど、そうせざるを得なかったのは、自分が意味の存在であったからだと思う。

もし、一回死ぬことができるサービスがあれば、自分はそれを受けるだろうかと考えたら、やっぱりまだ無理だった。死ぬ事で今の全ての価値が変わってしまうことが耐えられないからだ。保留されているものが明らかになることが恐ろしいし、それに対応してその後もう一度生きる自信がない。それを思うと、鬱になりかけても小康状態に戻す事はできる。が、だからといって問題が解決するわけでもない。

この限定的な状況の中で、何を生きることとするか。そろそろ、限界だな。

自分が生きていることには何の価値も理由もない。花が咲いて枯れていくのと同じように。その明前とした現実を突きつけられるのは本当にしんどい。人間以外の動植物が生き生きと生きていられるのは、彼らに言葉がないからだ。本当に、言葉という発明は人間の最大の矛盾だと思う。小さな生と死を繰り返しながら、肉体的にも矛盾した論理のバランスをとり生命を保つ生命体である人間という種が、言葉という意味でもって生きていることを明確にすることは矛盾にしか行き着かない。

限定的な状況の中で、なんとかしようと考えつくものは考え抜いた結果のことなので、方法そのものが誤っているのだろう。宗教や何かそれ以外の信仰がある人以外の「生きている意味」なんて全て論破できるだろう。それを他人に行うことはないが、自分自身に対して行ってきて、論破しえないロジックを探して生きてきたわけで、それをずっと探しているだけの人生であった。意味で意味の範疇外のことに挑んでいることは理解していたが、感情がそうはさせなかった。生きているということを感じたかったのだろう。ということは、生きているということが感じられなかったのだろう。トランスとかクスリとかセックスとか殺人とかそういう強度のあるものも、意味がベースにあったらずっとやってないと意味がないだろうし、ずっとやってたらそれは強度が弱まり日常になるのだろう。対処方法がより不可解なものにしか希望を見いだせない。超心理学学会にでも入るか出家でもするか。怪しい新興宗教にでも入って、どんなロジックで私を洗脳するつもりなのか味わってみたい気もする。全て論破する自信があるのが悲しい。

自分が、宗教とか社会学とか心理学が幼い頃から好きだったのは、自分が生きていたいと感じたかったからなんだろうと思う。そして、多くの人がそういう気持ちになっているように見えるものに興味を持ったからそういう結果に鳴ったのだろうと思う。けれど悲しいかな、自分がその一員になれることはなかった。私はずっと洗脳されたい。自分は生きているのだと。自分には生きている理由があるとか、自分には生きている価値があるとか。自分が死んだら困る人が居るなんていうのは、論外だ。自分が居なくても仕事も会社も経済も回るし、自分が居なくても残された人はそれなりに生きていくことは可能であるということは、周りの人の死で証明されている。重要なのは、自分自身がどう捉えるのかのみだ。そうすれば、何にだってなれる。世界は自分のものなのに、自分でどうしようもできなくなっていることが問題で、本当にどうしようもないかもしれないと諦めかけている点が一番の問題だ。

ここんとこ、1人暮らしを始めたことをきっかけに、そういう当たり前の事態に直面せざるを得ないが、そんな大テーマを今の自分に解決できるはずもなく。今まで私は何をやってきていたのだろうかと、疲れるだけ疲れるしかない。生活をしていかなくてはという義務感だけが、小康状態に戻しているだけの、本当に生ける屍である。


てゆーか、こんな言葉しか出てこないことがもう限界ということなのかもしれない。もう、新しい文法すらない。残念なこと極まりない。もはや書いていることが、この状況を記録しておくためだけにある。記録しておかなければならないと思うのは、何かのヒントになるかもしれないという今までの方法論の枠内のことでしかない。けれど、本当に記録でしかなく、記憶を圧縮するような自分の言葉でないことがどうしようもない。この残念な気持ちを表現できる言葉が自分自身にない点で、本当にヤバイなと思う。多くの人の表現が、その人がどこに居て何を言っているのかが解るようにはなったところで、その後に一体何が残されているのかと言えば、こんな何もない世界なのだ。

とりあえず、6日に会う唯一こういうことを相談できる友人に、一度相談してみようと思う。

2008年4月28日 (月)

かごめかごめ

籠の中の鳥は

いついつ出やる

夜明けの晩に

鶴と亀と滑った


後ろの正面だあれ?

2008年4月27日 (日)

マジック

目の前に大きな車が横切っていても、車にはねられそうになっている我が子を助けに飛び出してしまう母親のように。

人間は、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる。

マジックとは、観客を一点に集中させることにおいて成り立つ演技や、催眠術。観客を魅了するため、マジシャン達はその技を磨き、披露する。その意図が、観客を魅了するため、でなくなれば、詐欺や人を騙す事とと同じロジックだ。ときたま、

自分は騙されているのではないか。

という気分になる。特に、自分が一生懸命になればなるほど、そういう気持ちになる。特定の何かや誰かに対して、というのではなく、周りの全てに対してそんな気持ちになる。自分が生きていることすら。だから私はSFが好きだ。実はこれは、私という人間が生きてこういう出来事があり、というプログラミングに過ぎなかった、というようなオチなら良いと思う。はるか数世紀かなたの冷凍保存された肉体の脳みそに刺された電線から流れる電流が呼び起こす科学的なプログラムであれば良い。もっとハッキリとしたものが欲しい。何かを盲信することができれば、こんな気持ちからは解放されるに違いない。

神も、愛も、名誉も、信じることができなければないのも同然だ。唯一、「ないのも同然」でないものは、財産しかないが、貨幣経済を信頼できなければそこに価値も持てない。現代の貧乏人が散財するのは、インカムが少ないということよりも、金を信じていないからだ。彼らは別の何かが欲しいのだろう。収入が少なく餓死してしまうような状況なら、金でもなんでも信じて欲しがる事が出来るのだろうか。

死にたいとかいうわけではなく、それすらも邪魔くさい。
生きてることがこんなに邪魔くさくなったのは初めてやな。
もう長い間こんな気分のままで過ごしているのがめんどくさい。
めんどくさいのが頂点に達しているのがどうしようもない。
嗚呼、邪魔くさい。なんだこの既視感は。

2008年4月23日 (水)

               

ショートしはじめている。

それを、他人事のようにみている。

世界の端。
超える事の出来ない壁。
打ち付けてた頭が埋まり込み
私は今世界を縦にみている。


歪んだ価値観を必死に自分のものにしようとしている彼女。
話を聞いてもらうことすらできない私。
過ちかもしれないという未知との遭遇とは異なり
確信的に誤りへと進み、亡霊を自ら背負い込む。

脳みそが何か大きなものに踏みつぶされたような痺れ。
圧倒的な能力の限界を感じる。
可能性を否定しないことだけで進んできたのに
それを徐々に奪われている。

平日の朝に鳴るアラームのように定期的に。
日常に埋没しようと自動的にバッジ処理を行う機械の如く。
あえて向き合うことをやめ、吸収されたがっている。
すべてなかったことにして、まるでもとからしかるべきであったかのように。



私はおそらくこの世界と決着を付ける事が出来ない。

なぜ自分をこんな箱に入れようとしているのかが解らない。
一体何を恐れてそうしているのか。

痛みすら感じなかった自分に本当に驚きを禁じ得ない。

これは一体、誰の命なんだ。



これが単に老いであれば良いと望む。
しかしそうではないというのが解る。
けれどこれが何なのかは見えないようになっていた。


気が付いた時にはドールハウスに入っていて
私はそこでただの椅子としてディスプレイされていた。
人の形ですらない。




まじで一人でどっか行きたい。

2008年4月 6日 (日)

江原騒動について




何の自慢にもならんが、自分は幼少期から小学館のムーを購読していたのでオカルトに対してある程度許容と知識がある。この間も『ブレアウィッチプロジェクト』を『ブランチダビディアン』(それが何なのかは気になる人だけ検索してください)と言い間違えるという独身女性として非常に恐ろしい事態もあったが、そんな人生を歩んでいるだけあってオカルト的なものに関しては知識もあり理解と許容もある。が。

27時間テレビの件でエハラバッシングがあったとはいえ、未だに『オーラの泉』は高視聴率の元に放映され、スピリチュアリストが蔓延しており。この風潮はあまりオカルトマニアとしては宜しくない風潮だなあと思う。

自分が生まれてからのオカルト界とメディアの流れは、『オウム事件』で一変していると感じる。それ以前はむしろ、メディアはオウムすら評価する程「オカルト」を持ち上げていた。というのも、そもそも人間というものは「解らないモノ」に対して興味を持つものでそれはイコール視聴率が取れるものなのだから当然のこと。同世代の方なら誰だって、幼い頃にはユリ・ゲラーという謎の外国人が無言で数十秒テレビに映っているのを見つめながらスプーンを曲げ、夏休みには『あなたの知らない世界』で震え上がったものである。ムーでもそのころ宇宙人と心霊と超能力とUMAと神話と新興宗教のオンパレードであった。それが、オウム事件で完全に反転し、少し前まではオカルトを語るために「反対派」と「賛成派」で番組を構成せざるを得なくなった。

賛否両論あるとは思うが、私はオカルトと呼ばれるものの存在意義を認めている。それは、霊魂が存在するとか前世があるとかいうレベルのものではなく、「人間という動物が社会集団を営むに置いて「人間には解らない世界」という論理があることがベターだと考える」という意味で、だ。

オカルトの良い点をバックリまとめて言うと、「自分の知らない世界がある」ということを人が知ることにつきる。利点は大きく2つに分けられる。一つは個人レベル、もう一つは社会レベルであると思う。

個人レベルで言うと、「自分の知らない世界がある」ということを反転すると、『自分が見ている世界だけがこの世界の全てではない』と思えなければ、希望はないとも言える。人間とは『死ぬために生きる』という逆説的な動物であり、どの時代であっても楽だけして生きていくことは出来ない。人間には「どうしようもない苦難」というのが間違いなく存在しており、それは自分自身と自分の大切な存在の老いであり死である。多くの宗教や「大霊界」なんかはその根本を翻すことのできる論理だ。そもそも、「死」やそれに纏わる「老い」そのものが困難ではない、という論理である。
それを超越できる画期的な論理を手に入れることが出来ないうちは、人間という種は『自分が見ている世界だけがこの世界の全てではない』という意識を持つことでその困難を乗り切り、平和な気持ちで死ぬことが出来るのならそれで良いと思う。それは個人の思想や世界観の単なる選択の範疇である。
そして何より良い点は、『自分が見ている世界だけがこの世界の全てではない』と思うことによって、それらを「知ろう」とする知的好奇心を養える点である。UFOからNASAやCIAの存在を知るも良いだろうし、辺境地のUMAから日本と異なる文化を知ることも良いだろう。集団自殺を行った宗教が生まれた文化の差別を学ぶも良いし、何よりそれが自国の何に当たるかを考え日本文化を考える契機となる。同じく、宗教や日本の伝統を知る事で学ぶべき点も多いだろう。現代人が伝統や歴史に一番近づける一つのキッカケとしてオカルトがあるのならそれは素晴らしいことであるし、エハラや美輪さんが常々神道的な素材を出してくるのもそういう目的もあるのだろう(と信じたい)。

そして何より、社会レベルの話になると『自分が見ている世界だけがこの世界の全てではない』という意識は個人に『世界に対する畏れ』をもたらしめる。神様が見ているかもしれない、ご先祖様に顔向けできない、危険な場所には霊が居るかも知れないし、約束を破ると鬼が来るかもしれない。世界に対する畏れという大枠を使って、「禁忌」を設定し、社会を潤滑に機能させてきた。これは世界中の人間達が数千年と使ってきた論理構造である。これらは現実的に営まれてきた事実である。何をオカルトと呼ぶのか、という点で賛否両論あるかとは思うが、三大宗教でも「霊魂」的なオカルトを切り離せるかと言えばそうではないので、非常にバックリとした観点で上記ご理解願いたい。

メディアは「オカルト」に対抗するものが「科学」であるかのような見せ方をしているが、それは間違いである。オカルト的現象を科学で検証するというのは非常に意義があることだが、そもそも科学は結論のあるものを導き出すまでの過程であることが多い。なぜこれはこうなっているのか、という論理を導き出す。そしてそこで得た法則を、未知の領域の理解へと広げ領域を広げてきた。しかし、オカルト的テイストのものは全て結論が「ない」。「ない」というのは自分が見ている世界に「ない」という意味だ。

死を科学的に理解することは非常に簡単である。肉体的消滅とはどういうことかというと、心肺機能の停止である(とされている)。脳死問題というのは医療技術の向上で出てきた新たな問題であり、そこはここで語るべきではないので省略させて頂く。
では、肉体的消滅とは違った視点から「死とは何か」と問う時、科学的に証明すべき結論が「ない」。というのも、死んだ瞬間を知っている人は居ないし、死んだ後のことを知る人も居ないからである。科学の常套手段として「ない」ものを証明するためには、既存の法則を持ち出してきて未知の世界を測ることしかできない。なので、有名な科学者や先駆者と呼ばれる人達は宗教やオカルトに傾倒しがちなのだろうと想像される。

重要なのは、インチキ部分の科学的証明なのではなく、人間の「想像力」という諸刃の剣なのである。インチキや霊感商法がはびこる世の中は宜しくはない。が、オカルトや宗教そのものがインチキである、という観点はそれもまた極論だ。エハラーとアンチオカルトの議論は和解に至るはずがない。そもそも、立ち位置が違うもの同士が闘っても決着が付くはずがない。アメリカvsキリストのようなもんで、戦いそのものが成立するはずのないものなのだと思う。オカルトが存在する余地がなくなり、人間の想像略だけが残れば、『自分の見ている世界が全てである』と妄想する人間が出てきても仕方がない。自らの法を作り、自らを神とする幼児的全能感を持つ大人がはびこれば、社会はなりたたないと思う。

エハラ氏については、インチキだろうがそうでなかろうが、宜しいと個人的には思う。番組に出てくるほとんどの芸能人の前世がヨーロッパの貴族であるのは、エハラが「前世がヨーロッパ貴族の人」好きで事前にチョイスしているだけなのかもしれんし、芸能人のほとんどが風やら八百万の神さんのお導きを受けているのもそーゆー人をチョイスして出しているのであろう。あの不敵な笑顔もメタボも腕毛の濃さも寛容に見るとして、オーラの泉での教訓は決して人を犯罪に走らせるようなことではないので個人的にはどうでも良いと思うし、フジテレビの件もいつも通りの彼の論調であった。が、フジテレビ側の非人道的な番組編集に問題があった。オカルト的な胡散臭いことを生業としているのだから、放映される映像のチェックをしておくべきだった。どうしても辛い経験をして乗り越えられない人がいるとして、その人がエハラの一言で涙を流し前に進むことができるのならそれはそれで良いし、その映像を見て癒される人がいるなら存在意義はある。人に説教たれるだけの存在ではなく、それを含めた「さまざまな方法で癒しを提供するピエロである」という自覚がなかっただけなのだろう。『最終的に癒しになっているのか』をチェックせずに放置してしまったことが彼の落ち度であり、編集をしたフジテレビ側の責任の方が重い気がする。

とはいえ、そういう落ち度こそ、彼が『自分が見ている世界だけがこの世界の全てではない』という私が思うオカルトの世界から自ら足を踏み出している証拠であり、自らはピエロ=エンターテイナーではなく全能だと勘違いしていたことの証明に繋がる。自らがエンターテイナーであるという意識があれば、編集後の映像もチェックしたであろうし、現場でそんなにモメたのだったら取り直したりボツにしただろうに。本人も「(今まで通り)編集でなんとかなるやろ」と思っていた様子がアリアリと感じられる。江原の守護霊さんはこの苦難をお知らせしてくれなかったのかしらん、と思われても仕方ないわ。

オカルト的なお話について、どこまでがほんまでどこからが嘘なんて本当はどうでも良いのだ。しかし、そのことで人を傷つけるようになったら終わりだ。良い部分が沢山あればあるほど反転する。非常に勿体ない。

ただ、それだけのことだ。